若杉鳥子

| 青空文庫 |

 落葉松の暗い林の奥で、休みなくかっこうが鳴いている。単調な人なつっこいその木霊が、また向こうの山から呼びかけてくる。七月というに、谷川の音に混じって鴬がかしましく饒舌している。然しここでは、鴬も雀程にも珍しく思われない。
 谷あいの繁みをわけてゆくと、一軒の廃屋があった。暗い内部には、青苔のぬらぬらした朽ち果てた浴槽があって、湯が滾々とあふれている。手を触れる者さえなくて、噴泉は樋をつたい、外の石畳に落ち、遠く湯川となって、葦の間を流れてゆく。足を浸すと、ぬるい湯が黄色い繊毛と共に纏わり、硫黄の香が漂う。花はまだ季節が早いのか、燕子花や、赤い蝿取り草ぐらいしか咲いていない。その間に、この辺の人が焼酎に浸けて喰べるというすぐりが、碧い透きとおった飴球のような実をつけている。時々野薔薇がむせぶように高い香を送って来た。白樺や落葉松の間の、溶岩の散らばった路を上って行くと、急に平らな丘の上に出て、浅間はもう眼の前に噴煙をあげていた。遠く見れば、浅間はただなだらかで端正に裾をひいているが、近づいて見ると、緑色の上着の胸を寛げて、自己の履歴を語るように、焼け爛れた赤錆色の四角な肌を露出している。

 山内ゆう子――私は一人の新しい女性を紹介する。見た処彼女はまだほんの初々しい、はにかみがちな少女に過ぎない。だが少し相対して話していると、聡明な実にしっかりした女性であることが解ってくる。
 彼女の生まれは九州だそうだが、父が地方長官をしていた関係で、女学校を東北のA市で卒業した。父の没後は、母と一緒に東京の郊外に棲み、女子**に通学していた。卒業後は独自の生活を立てながら、医学の研究を続けてゆく決心でいたが、美しい彼女のもとへは女学校時代から、結婚の申し込みが殺到していた。それに、財務官をしている叔父夫妻までが、彼女のお嫁入りの世話に躍起となっていた。――だが本人はというのに、ようやく時代にめざめつつある彼女が、先ず周囲を見廻す時に、真面目に問題とするような男は一人もいなかった。
 階級闘争の激烈な時代に生きながら、この有産階級の男達は、脚下に迫っている明日の没落の運命を少しも知らない。或ものは刹那の歓楽を追い、或ものは醜い利己の欲望に駆けめぐっている。そういう男達の無智に対して、彼女はひそかに絶望していた。

 それは何処の土地だか知れないが、向こうの神社の杜の中から、お神楽の太鼓が響いて、時々子供達の騒ぐ声が、波のようにきこえて来た。向こうの藁葺屋根の暗い軒端に、祭礼と書いた赤い万灯が立て掛けてあって、それが雨に濡れて字が滲み、ぽたぽたと赤い雫を落としていた。私は何ともいえない、うら悲しい気持ちで、その百姓家の窓から、これらの風物を見つめていたのだった。だが、「もう帰ろうよゥ」ともいい出せない、せっぱ詰まった事情でそこに雨宿りしているということは、子供ながらに知っていた。そして帰りたいのを凝と堪えていたのだった。
 それは多分、私の里子にやられていた家の親達が、もう百姓の仕事を止めて、旅商人になってからのことだったと思う。
 一家は玩具や雑貨の荷を背で負って、盛り場から盛り場へと歩いてゆく父親に随いて、祭礼や縁日のある土地へ行った。何処ででも行き着いた土地へ天幕の店を張って、地面へ薄ベリのようなものを敷いて、玩具のサーベルやラッパや安っぽい花簪や、蟇口の類を並べ、そして唄のように節をつけてお客を招ぶのだった。私もいつかその口擬ねを覚えて、天幕の店へ坐っていた。お神楽の太鼓や疳高くピイピイ鳴る風船の笛、或いは爆竹の音、アセチレン瓦斯、おでん屋の匂いなんかの中に、凍えるような夜をふかすのだった。