若杉鳥子その3

| 青空文庫 |

 茶店のお爺さんに、「島崎さんの碑はどの辺にありますね」と訊くと、動物園を通って、橋を渡って、馬場を突っ切って行くと直ぐだといった。城内はさすがに老木が繁りあっていた。鹿の谷へ降りてみたら昼も暗く、ひんやりとした崖の際に、鹿は無期徒刑の囚人のように、憂鬱にうごめいてた。そこを上って動物園になっている平地に出ると猿や熊が熱そうに檻の中をのたうち歩き、ラジオのジャズがきこえて、旅情も何もあったものではなかった。橋があるといわれた橋は「しらつる橋」、それは谷に架け渡された吊り橋である。踏めばきしきしと揺れ、子供達が駈けて通ると、欄干がぎいぎいときしんだ。下は真ッ暗な谷で、ゆずり葉の大木が谷底からぬッと橋の上まで首を伸ばしている。昔はどんな風体の人間が往き来したものだろうか、侍だの、奴だの、御殿女中だの……その頃は勿論、葛か何かの危険な橋だったに違いなく、雪が降ったら美しい風景だろう――なんて、此処でやっと童話的な気分を少し味わう。フォンテンブロオの森にあるミレエとルソオの記念碑に模して、天然石へパネルを嵌め込んだものだという、千曲川旅情の歌の碑は、城趾の崖の上にはあるにあるが、「千曲川いざよふ波の」という千曲川よりも、つい眼の前の新しい製糸工場の建物の方がよっぽど眼に近い。向こうの翠の丘の下をうねうねと流れている千曲川の水は、掩いかぶさった老松の間から、奔騰する泡のように、白く光ってみえるだけだった。

 ある晩、F楼の亭主が隣家のH楼の電話を借りにいった。
 Fにも電話があるのに自分の処へ借りに来たものだから、H楼の亭主は何事かと思って、
『お宅の電話は、どうかしましたか?』
 と訊いた。
『ナニ、警察へちょっと……野郎感づくと遁がしちまうから……』
 F楼の亭主はそういいながら電話室へ入ると、じきに電話を切って出て来たが、馴れ切った中にも、流石に異常な緊張を見せてそそくさと出ていった。
 それからすぐにH楼の亭主も、帯をぐっと締めなおして仲間の義理からF楼の帳場へ出掛けていった。
 すると間もなく警察から私服の刑事がドヤドヤF楼の店へ入っていった。
 刑事の一人が二階へ上がると、他の二人は階段の下で待っていた。
 今にも階上で格闘が始まり、凄い物音の起こるであろう事を予期して、階下では皆身構えて固唾を嚥んでいた。
 およそ十分許りも静かに時が経過した。

 その夜の月は、紺碧の空の幕からくり拔いたやうに鮮やかだつた。
 夜露に濡れた草が、地上に盛り溢れさうな勢ひで、野を埋めてゐた。
『お歸んなさい、歸つて下さい。』
『いえ。私はもう歸らないつもりです。』
『どこまでひとを困らせようといふんです。あなただつて子供ぢやああるまいし。』
 草の中に半身を沒して、二人はいひ爭つてゐた。男は激しく何かいひながら、搖すぶるやうに女の肩を幾度も小突いた。
『いえ、私はあなたが何と仰有つても、あなたに隨いてゆくのです。それより他に私の行くみちはないんです。』
 女は嶮しい男の眼を眼鏡の中に見つめながらいふのだつた。